おかげの泉 第十七号 昭和四十六年一月十二日 朝の御教話より
X御理解 第十三節 「神は向かう倍力の徳を授ける」
神は向かう倍力の徳を授ける、神は向かう倍力のおかげを授ける、とは言ってないところを注意しなければなりません。
神は向かう倍力の徳を授ける、私共はなる程、神様一心に心を打ち向けて参りますと言うとこの位の信心に対して勿体ないのにこれ程のおかげを受けてという事になります。一心に神様に向かう、縋る、けれどもそういうおかげと、ここんところを間違えてはならない。今日はとりわけ第十三節は、そのように頂かなければなりません。 一生懸命神様に向かえば、それはもう神様におかげを頂きます、けれどもここでは倍力の「徳」を授けるとおっしゃるのですから。
それなら倍力の徳を受けられる程しの向かい方というか、神に向かうというのはどう言う事であろうか。今日、私、神前で頂きました事は、高い高度な理念、深い情念という事、深い情念、情は我情の情ですね。念は念ずるの念。私共がね、高度な理念のもとに、いよいよ情念を燃やしていると、御理解第十三節、神は向かう倍力の徳を授けると、このように倍力の徳を授けると言うところに重点を置いてなかったですね今日初めて、ここに気付かせて頂いたような気がする。ここでは倍力の徳を授けるとおっしゃっておるのに、私共は、例えば十の信心が出来ておれば二十のおかげを下さると言うように頂いておったね。けれどもそういうふうには説いておられない。倍力の徳を授けるとおっしゃられる。ですからなる程一生懸命お詣りすると、信心もわからんのに、振り返って見ますと、こんなお粗末な信心にも、勿体ない程のおかげを受ける事は事実ですけれども、その事は又別ですね、ここでは。
例えば毎日私共は、朝の三時半から四時迄ここの控えで待たしてもらいます,まあ言えば三十分間、何んにも無いのであります、ね、それよりも、五分か十分か前に来てから、四時の御祈念に間に合いさえすれば良いのです、ところがこれは私にとってこの三十分間と言うものは、もう大変な三十分間であります。それこそどこ迄深いかわからない思いに耽らせて頂くひとときです。十六・七になったばかりの私の子供、三男の幹三郎が毎朝付いて参ります。黙って前に座っておる、自分も黙っておる、私が感じておる事を感じているとは思われない。けれども神様には一週間の約束であったのだが、もうやめられない位になっておる。これはもう理屈ではないのです。
勿論、辛い、苦しい、とそこを辛抱し切れんと言う事があるかもしれません。けれども、それより、もっと、もっと深いもの、これは理屈ではない、例えば控えで、じっと瞑目しておりますと、そこの手洗いの水が、筧を伝わって落ちております。その音は、心を集中しますと、どこまで深いかわからない、もう有難いものが感ぜられる只筧をの水音を聴いているだけなのです。
けれども、それはどこから湧いてくるかわからん程しに、深い有難いものが生まれて来る。そういう有難いものに、ひとたびふれるところから、止められないと言う信仰が生まれてくる訳です。ですからなる程信仰は理屈じゃないと言われるのは、そう言うひとつの情念の虜になるからです。
例えば恋は思案の外とやら、と言う時に使うのが、あの情念ですね。あれは安珍清姫ですかね、好きな男を追って日高川を渡る、あの一念、燃えるような一念が所謂、蛇体となったと言われる程しに、あの濁流を泳ぎ渡って、安珍の後を慕って行った。 所謂、情念の鬼と化した訳ですね、そして相手を取り殺す迄になった、確かに恋と言うものは、そういうものを持って居るですね。情念ですから、そういうものなのですけれども、今日は私が言う信心の情念と言う事ですね。
情とは想い、念ずる念であります。神様を思う一念と言うような、はっきりとしたものでなくてですね、そこから生まれて来るもの、燃もその情念が、いよいよ深いものになって来る、いよいよ有難いものに育って行くと言う事。私は神は向かう倍力の徳を授けるとおっしゃるのは神様に向かって行く念が、いよいよ強くなって行くと言う事なんです、神様に対するところの、所謂、金光大神に帰依すると言うが、金光大神への帰依が深くなって行くと言うこと、もう少しわかり易く言うなら、親先生に対するところの念がいよいよ強うなって行くとい事、いよいよそう言うひとつの情念心とでも申しますか、所謂、神様に対する、金光様に対する、親先生に対する情念がだんだん深くなって、そこから、お日参りでもさせて貰わねばおられんと言う事になるのである。こういう場合、親先生なら、どう思われるであろうかと心のゆとりも出来るのである。この時金光大神ならば、どうなさるであろうかとなってくるのである。 ひとつの事柄が、そういう深さを持って来るのである。そういうおかげを頂かして頂く為に理屈抜きにです、理屈抜きに、ハイと素直に言える、素直さと言うものが求められる訳です。信心にはそんなこと言うたってと理屈を言えば、理屈は言える、けれども只、親先生がおっしゃるから、親先生が、そう言われるから、訳はわからんけれどれも、ハイ、と言う、その心なのです、例えて言うと私と幹三郎の今の関係が、そうだと思います。
そしたらそれがだんだん、何とはなしに、私はまだ聴いてはおりませんが、何とはなしに、良いと言うか、有難いものにふれて、無言の中に、お互いが交流して行く訳なのである。そういう心で聞く筧の水である、水の音である。
そこで私は思うのですけれども、理屈を抜きにして、ハイ、という素直な心という心なのですけど、それを例えば福岡教会の初代、吉木栄蔵先生、この方は大変願行に掛けては、吉木栄蔵の右に出る者は居るまいと言われる程しに願行の出来るお方で断食をしたり、火や水の行をと言ったような、所謂、荒行をなさった方ですから。
まあ私想像するのですけれど、心の行と言うのが欠けておられたのではなかろうか だから、二代金光様は教えておられる、福岡の地に「馬鹿と阿呆で道を開け」とおっしゃられた。馬鹿と阿呆になると言う事は、大変な心行なのです。心の行、私はねこの馬鹿と阿呆で道を開けとおっしゃるような、何の変哲も無いような教えの中に、いよいよ情念を深めて行く修行、これが第一だと今朝感じます。
言い訳はある、こちらの方が理屈は良いけれども金光様、金光様で、まあ辛抱の出来んところを金光様、金光様でそれを言わんで済む、本当の馬鹿なら、阿呆ならですね、全然そういう事は、ひっかかりはしないだろうけれども、まあそうでない場合、馬鹿と阿呆になる稽古ですからやはり、歯痒くあれば、腹も立つ、そういうところを辛抱さしてもらう、有難い事にはね、神様が、親先生が、金光様が、ああ教えて下さるんだからと、それを一生懸命、行をしてゆく。 ここが馬鹿にならねばならぬところ、ここが阿呆にならねばならんところじゃなあと思うて辛抱する、そうするとそれが必ず、おかげになるんです。信心の場合は金光様の信心の場合は、その事を頂いたのですけれど蚊取り線香ね、一寸足りんことを、あれは蚊取り線香のごとあるというでしょう、左巻きとね。少々あれは左巻きだと、燃もその蚊取り線香に火がついているから、煙が出る、そこで周辺の蠅やら蚊が出て来ませんし、蚊などポトポト落ちて来る訳ですね。所謂、煩わしいものがだんだん無くなってくる。私の周辺から蚊のような煩わしいものがだんだん無くなってくる。
馬鹿と阿呆になると言う事は、そういう素晴らしい利得があるのです。そこでそんなら馬鹿と阿呆にならして貰う、言うなら、楽しみもあれば、有難味も伴ってくる訳です。私はそういう稽古と言うか、今日は本気でひとつ馬鹿と阿呆で行くぞ、とそれに取り組ませて頂くと言う事。そこから神様への情念と言うか、情念と言うのが育って来るように思う。そりゃあ、きつくもある、唾くもある、腹も立つ、理屈はこっちが良い、そういう事でも、まあ親先生がああ言いなさるけん、ハイと言う気になって幹三郎の場合は随いて来て居る、ところがそこからはっきりしたものが、生まれて来た。先日此処(御結界)に出て来てから、僕は高校を中退しますと言う。今迄は行くもんだと自分で決めておった、自分もお道の教師等とは考えてもいなかった。学校の先生は浮羽工高は難しいから、他の学校を受けよと言う、僕は他の学校は行きませんと、だからそれ一本で行きますと自分で選んだ。そして合格のおかげを頂いた訳です ですから、それで一生懸命勉強しよったんですけど、心を神様に向けたら、そういうものは、もう余り自分には役に立たないと。いやそれだけでも、時間が勿体ないと言うようなものが、だんだん感ぜられてきたようである。いやそれでも高校卒の資格だけは取って置かにゃと、兄ちゃんの方が言いましたけれど、けど私は思いました、高校とか大学卒業とか、卒業証書の必要はない。信心は、お前がその気になったら、勉強はね今迄しよった勉強じゃなくて、あの文化系の勉強でも,家でさして貰いなさい。そしてやはり信心に打ち込んで行き、かえってね、無学の先生の方がいい、どう考えても、大学出の先生じゃ、余り人が助かりよらん事実があると言う事。それを聞いてから、ほんと、そうだと思いますね。それが今日、私が言わんとする事、理念だけは、持っておられますけどね、深い情念がない、神様に対するところの止むに止まれん、憧念心などが育っていない。そう言えば、私共の場合がそう、私は無学で何にもわからんけど、言う事が、言わば、へりくだってなくて、本当に無学と言えるです そして此処で皆さんに、わかって貰う事は、なる程無学ででも幸せになれるんだ、無学でもおかげを受けられるんだと言う事を皆に実証する事が出来る。勿論学問があっても、おかげは受けられる。力を、お徳を受けられるけど、それが場合によっては学が身を食う、という事にもなる。所謂、理念だけが、高い理念だけがはしって、所謂情念の念に欠けるからである、深いものにふれる事ができない。
「ちょいとそりゃ良かろうばい、今どき高校出とらん者は稀だけれど、だんだんおかげを頂いて、私は無学だけども、おかげを頂いて、このようなおかげを受けておると言うだけでも、人が助かる範囲が広うなるような感じがするね」と言うた事でしたけれども。まあ、私、その事に賛成させて頂いた。
皆が幸せになる為に学校に行っとかねばならんとかね、これだけのものは身に付けておかねばならんと言うけれど、実際は、それは幸せとは余り関係無いのです。幸せと一番密接に関係するものは、やはり心である。その心が豊かであるか、深いか、広いか、と言う事なんである。その上に高度な理念が、身に付いてくれば鬼に金棒である。そこで、私は今日、高い理念と言う事に付いて、数学的な難しい事は言わんが、まあギリギリどういう事かと言うとです、実意丁寧神信心と言う事なんです、結論しますと。それを、も少し申しますと、「天地日月の心になること肝要なり」であります。もちっと申しますと、天地の法を知り、天地の中に在る本当の事、所謂、真理を追求する事、天地の法則を弁えると言う事。
ですから、天地の法則を弁え、天地の法則に従った生活、燃も芸術家が美を追求するように、私共がより本当な事を追求して行こうとする姿勢。それを具体的に言うと所謂、天地の法則に従った行き方と言うか、真理を追求して行く行き方は、教祖の神様がおっしゃる、実意丁寧神信心になる外はないと言われる程しに、非常に情念と理念が近付いて来る。天は高い、地はどうかと言うけれども、天地が一体にならなければね、私はおかげじゃないと思う。それを理屈、理論だけに走りますとね、こんなにかけ離れてしまって、おかげはそのかけ離れたところから、洩ってしまう事になるのです。それを実意丁寧神信心という事をも少し言うならば、今申しますように、天地日月の心になる事なのです。それには天地の心を知る。所謂天地の法則を知る。
真理を悟って行く、これが最高の理念だと私は思わせてもらう、そこに今迄説いて参りました情念と、もう一体になるものを感じます。高度な理念と、深い情念とが,一つになった姿を、教祖金光大神が教えておられるのであり、又説かれておられるのだとこう思う。そこで神は向かう倍力の徳を授けるとおっしゃられるのだ。
私共がそういう最高の理念に基づいた、情念の深さと言ったようなものを、求めて行くと言う事が、そういう姿勢が、神に向かう姿勢であり、神に向かう姿と言う事なのです。それが神に向かうのです。ですから、そういう行き方が、生活の上に表されて行くと言う、そこからなる程倍力の徳を授けるとおっしゃられる事が、今日は合点が行ったような気が致します。倍力のおかげを受けると言うのではない。確かにおかげは受けられます。やはり一生懸命になりゃ、一生懸命になっただけのおかげはちゃんと受けます。けれどもそういうものじゃなくて、今日は倍力の徳を授けるとおっしゃるところを、高度な理念、深い情念と言ったようなところから、ここんところを聞いて頂きました。本気でですね、親先生がああ言われるから、きつかろうけれど朝参りして来い。それでもと言わずに、先生がああ言われるから朝参りを、いっちょしてみるのだ。さあここは、ひとつ馬鹿と阿呆になって行けとおっしゃるから、歯痒いけれども、馬鹿と阿呆の稽古を一生懸命するのだ。もう相手とか、おかげとか言う方に向いていない。そこから生まれて来る体験をおかげと言う。
そのおかげの楽しみを味あわさせて頂きながら、いよいよ深いものに、高いもに、信心を深める事は、信心を高める事につながるんだ、と。いやいや同じだとさえ言われるのです。いよいよひとつ、深い情念を求めての信心。
これはもう理屈抜きにして与えられるもの、それは馬鹿と阿呆になる、言うならば素直になる、理屈ではない。そこから理念の大徳が受けられる。倍力の徳を授けられる。なる程私共の思いと言うものは、願いと言うものは、この位だけれど、神様は本当に倍力、倍力位ではない程しのです、力を与えて下さるなと言う事を、これは体験してわかる事です。
まあおかげでもそうですね。私共は椛目に居た頃、椛目時代に、あそこが何畳でしたかね、お広前が六畳と四畳半、でしたが。あそこが、あの時分参って来た人が、先生このお広前が、ず-っと向こうのところの柿畑まで続くようになったらとても良いでしょうね、と言うから、言いました。ほんなこつの、そげんなるなら良かばってんからち(ほんとにね、そうなるならいいけれどね)言いよりましたら、それから一年後には、そげな段じゃなかった(それどころではなかった)。もうあそこいっぱいになってしまった。ですからもう私共が、ほんにこんなにおかげ頂いたら良かろうと思うよりか、それよりか、うんと神様の方が先の方を見よって下さった。
これはお金に於いても同じだけれども。力に於いても同じ事が言えると思います。 どうぞ。